辻井喬

天皇の戦争責任に論が及ばないようにする司馬の議論は、きわめて意識的なものなのだと私は思う。また意識的でないと議論できないものなのである。その無理をあえてするところに、司馬の歴史観の窮屈さがあると私は思う。   司馬の読者ならすぐ気づくことだが、作中にもしばしば見られる、「余談ながら」もそうである。 ひょろっと作者のつぶやきみたいな感じで出てくるそれは、普通の小説作法から外れている。自由に大胆に取り入れて、それがかえって読ませる要因にもなっている。 。。。 しかし、この手法は虚構である小説世界をときどき事実の世界に近づけるという点で、一種の詐術と見ることもできる。 読者は、「余談」だけが事実を語っているとは読まない。 「余談」があることによって、小説世界全体が事実を語っていると読んでしまう。 にもかかわらず、それをいわないでおかない作家の心理は、いったい何を語るのだろうか。作品が佳境に入り、読者が没入しそうになるとふっとそらしてしまうのは、意図的でなければできないことである。 私はあえて想像してみるが、司馬は自分の作品の読者であれ誰であれ、熱中して興奮状態になることを嫌ったのではないかと思う。